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   日記

12月26日  メリー!

さすがにおかしくなりそうなのでイブの夜は遊びましたが、24日も25日も昼間はずっと大学の図書館に血走った目で詰めておりました。
ウチの大学の図書館は、地上階よりは階数が少ないものの地下五階まであるシロモノでして、しかも私の専攻の本は大体地下にある…ってことで地下に蠢いてました。
特に地下五階に禁帯出の専攻の本があり、そこで専攻の友人と何人も遭遇。
慰めあいまくりです。
携帯電話の電波も入らない最下層に徘徊する人たちの目はみな死んだようでした。

「クリスマスにここにいる人って本当に卒論が際どい人たちだよね…。私もホントヤバイよ…。幻で地下六階の入口が見えてきそうだよ…」
「大地震が起きて、ここで圧死しても今なら文句は言わない……」
「地上に出たい。太陽が見たい」
同時にため息です。しかも会話があまり噛み合いません。

でもまあ、泣いても笑ってもあと2週間程度。がんばるしかないです。
「とりあえず、卒論提出日ですよね…(その後は楽になるという意味で)」
と、教授にそんな話をしたところ、
「ん? 君は卒論提出日からが本番だろ? ましになるまで何度も書き直させるよ、もちろん」
……うっわ、教授愛してるっ。

……すみません。
今日の文章、自分が何を書いているのかよくわかりません……。
学校行ってきまー。

11月27日 宇佐見英治さんについて

私淑というのすらおこがましいが、敬愛していた宇佐見英治さんが九月に亡くなられていたことを知った。思わぬ訃報に呆然とし、知らなかった自分を嫌悪した。

宇佐見英治さんは美術批評や文芸批評、エッセイなどをおもに書かれていた方で、私が氏の文章と接したのはジャコメッティの本が最初であったが、あまりの文章の美しさに著作を可能な限り集め繰り返し繰り返し読んでいる。

私はずっと詩などは得意ではなく、文章は読めればいいと思っていた。けれど宇佐見さんの文章に触れはじめて文章は言葉はなんて美しいものなのだろうと思った。硬質で明晰な文章は、無機質な印象を裏切り、ずぶずぶとどこまでも深い情景と感情と力を抱いていた。狭い洞窟に入った瞬間、そこには広い青空が広がっている……そんな思いをもたらす文章だった。

私は今も空を見るたび、ジャコメッティの作品を見るたび、木々を見るたび、四季を思うたび、頭には宇佐見さんの文章の断片が浮かんでは消える。特に訃報を聞いてから、何をするにも宇佐見さんの言葉が頭を埋め尽くしている。

「何に怯えているのか。棘が胸をかすめたくらいでどうして気が立っているのか。生きている以上は誰にだって苦しみがある。思い煩った所でどうなるものでもない。しかしなぜ考えることを止められないのか」『三つの言葉』

あまりにもたくさんの言葉が浮かんで来すぎて、何を抜き出して書いたらいいのかわからないけれど…。考えたってわからないことは無駄だから考えない、が主義の私は、宇佐見さんの文章に到達することは決してないだろう。彼が抱いていた絶望や劣等感、そして憧憬を真の意味で理解することは決してないだろう。しかし、その美しさをどこまでも抱えていくことくらいはできるはずだ。

……謹んで哀悼の意を表するとともに、ご冥福を心からお祈りいたします。

11月8日  髪をきりました。

友達の家に美容師が来て、髪を切ってくれるというので、行ってきました。この言葉の響きから、「友達が美容師で〜」というような軽い会を想像して行ったのですが、ホントに「美容師」が来ました。
やってきた40代で敬語の男性。大荷物持参。
誰なんでしょうか、この方は。
この会も三回目らしいので、他の友人たちはそこそこ美容師さんと仲良しです(敬語でしたが)新参者の私が根掘り葉掘り聞くのもなんなので、状況を把握するためみんなの会話を黙って聞いていました。

・今日はAVの撮影の帰りらしい。(AVのヘアメイクをよくやっているらしい)
・樹海でも撮影するが、野犬が凄く、エアガンで戦うのが大変なので、あんまり行かなくなったらしい。
・昔消防士で、何人か仲間が死んだため、フランスのラファイエット(デパート)で美容師見習をはじめた。
・ソフィ・マルソーの耳を触った。

………えーと、全然正体が知れません。
髪を切ってもらい(腕は大丈夫でした)、美容師さんが帰った後、友人たちに、「……で、何もの?」
と聞きました。
「友達の知り合いの友達」


カットとカラーが初回限定価格で3000円でした。
私も素敵な大人になります。

10月31日 欲望によって開花する

「帰ってくればいいのよ」
母が電話口で言う。
「地元で適当な働き口見つけてさ。お母さん張り切ってアンタの見合い相手も探してきてあげるし!」
「…うん」
「……」
「……うん」
「……アンタが東京でやりたいことはよくわからないけど、やる気がお母さんにも見えるなら、応援するよ? でも……」
母が言葉を濁した。
そう、そうなのだ。
自分でも、「私」が何がしたいのかよくわからない。
「夢」は「望む将来」は頭で考えただけのもので、心のすべてを浸しはしない。
母の言う私の未来に、心揺れる自分が確かにいる。
東京より少しだけ寒い故郷に戻れば、きっともっと気楽に過ごせる。
……でも、多分、それだけで。
それでは何か違う気がして。
結局決められない。
ため息が出る。

「お前にはこだわりがないのか」
そう、最近とみに似たような言葉を掛けられるようになった。
「将来、どんな家に住みたい?」「どんな仕事がしたい?」「どんな恋がしたい?」「どんな人間になりたい?」
どの質問にもちゃんと答えられない。
上辺だけの言葉を返すことはいくらでもできる。でも、心の底から願えない。
願うことは、欲することは、「信じる」という強い力が要る。
けれど、今、そんな力は自分のどこにも見つからないのだ。

人という種が在るためだけなら、流されるだけの一生でもいいだろう。
でも、もし、個としての人が、欲望によって開花するなら。
欲しがらなくては。

……どんな未来が欲しい?

9月12日 ものを書く人

感情を上手く対話で表わせない人がいる。無口で無表情で、というか。私が高校の時知り合った友人はいつも黙り込んで、穏やかに佇んでいる人だった。結構仲良くなったつもりでも、正直、何を考えているかよくわからない人だった。

その人は、小説を書いていた。読ませてもらった小説は少女が主人公の純文学で、なにより、少女の闊達で雄弁な様に驚いた。世界観があまりに混沌としていて驚いた。情けない話だが、小説を読んで初めて「この人はずいぶんと色々抱えているんだなぁ」と思った。そして二度ほど読むうちに、(こういう事を言うと不快に思う人もいるかもしれないが、)小説を書くことは、少なくともその時読んだこの小説は、言い方は悪いが「現実」の代償行為、もっと正確に言えば彼の正規の感情表現なのだとぼんやりと思った。小説の中の少女は、小説の中で大声で叫び、笑い、歌い、走りながらも、ほの暗いものを抱えていた。注意深く見てみると少女は、表面的には似ていないが、なぜかどことなく彼の印象に似ているような気がした。

感情は自然と外へ表現されようとし、その際表情や身振りや言葉を伴うものなのだろう。多分、それが普通だ。けれどその能力を日常生活で上手く働かせることができず、代わりに小説を書いたり、芸術作品を作ったり、映画を撮ったり、音楽を作ったりする人もあたりまえだがいるのだ。あたりまえなのだが。

感情を身振りや言動などでは表わさず、既存の形式的なもの(例えば小説という形)を用いて誰かに伝える。そうして、感情を表わしているのだ。直接的な感情の表出はわかりやすいが反射的で、無計画的だ。なにか形式を通した感情の表出は理性的だが、わかりにくい。多分、どちらがいいという問題でもないのだろう。どんな手段であれ、そうしないと人は生きていけないのかもしれない。あらゆる生動する感情はおのずから外に現われるのだ。どんな媒介を使ってでも。

7月17日   キッチュな関係

本を読み終わって、自分のこと…「さて、明日は何をすればいいのかな」となどと考えるとき。いつも私は、その「考え」の文体が、それまで読んでいた本の文体と似通ってしまうことに気づく。本を読むと、制御のできない文体模写が脳内で勝手にはじまる。自分の考えでありながらも、そのすべては自分のものでない状態になる。もちろんその「文体」はつまらない模倣であり、言葉遊びにすぎないのだが、自制がきかないあたりがおもしろい。私は「コレ」がはじまると、いつもちょっとだけ楽しくなる。自分の考えが、いつもと違う服を着て出てきてくれたように感じるからだ。いや、もっと流動的かもしれない。いつもは緑色である自分の「考えの川」の色が一瞬だけ黄色く染まる感覚と言おうか。ともかくそれは、確かに非日常を見せてくれる小さな娯楽である。…本自体(中身)も非日常を、もしくはその断片を与えてくれる。…本にはいくつかの非日常が潜んでいる。

そして是枝監督の映画『ディスタンス』を見たことを不意に思い出す。カット割が独特で(長い)、カメラワークは「誰かの視点の動き」になっていた。映画を見ている間は、あまりのその違和感に酔ったのだが、映画が終わってみると、しばらくの間自分の目線が映画のカメラワークにそっていた。他人の目線が自分の目線を占拠していた。それは本を読んでいて自分の考えの「文体」がシフトする感覚とそっくりだった。どちらもどこか落ち着かなくて、それでも、不思議と楽しいと思う。

どちらも楽しいなどと言っていられるのは、結局それがが自分の中で作られた複製物で、自分の価値観が感覚が、最後まで壊されることはないと知っているからだ。非日常的でキッチュなその楽しみは、ディズニーランドを楽しむ感性と似ているのかもしれない。

――うわぁ、強引だなぁ。
     

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